店主ごあいさつ
はじめまして! こんな所まで来ていただき、ありがとうございます。
(有)小野カメラ店として、都城本駅前で創業して50年以上になります。
最盛期は、都城・北諸・曽於で5店舗ほど展開しておりました。
現在は、こちらの鷹尾店と隣町の曽於市末吉店で細々と営業しております。
なお三股店は、兄弟店で別会社になっております。
カメラ店という名前が付いておりますが、カメラの販売はとっくに
家電量販店にお株を奪われました。
しかし量販店で買われたデジカメの使用説明は、
毎日のように無償でさせて頂いております。
なぜかって?沢山写真を撮って頂いて、当店でプリントして頂くのが、私達のお仕事になっております。
フィルムの現像・プリント、デジカメからのプリント、
スマートフォンからのプリント、写真で作る年賀状、撮影業務などなど・・・
私は、ほぼ毎日、曽於市の小野カメラ末吉店に通い、そちらに詰めております。
末吉店には、都城の北原町から小野カメラ本店と鷹尾店に寄って、30分ほどのご通勤です。
地域に役立つ写真屋さんを目指して商売繁盛に、日々奔走中。
2才 昭和35年
「音楽好きな写真屋さん」 カクタス小野 こと 小野潔(きよし)と申します。
ちょっと変わり者ですが、よろしくお願いします。
写真屋さんになるまでのプロフィール
昭和45年 3月 |
都城市立 大王小学校卒業 成績優秀?
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昭和49年 3月 |
都城市立 小松原中学校卒業 だんだん、普通の道から外れ始める。
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昭和52年 3月 |
宮崎県立 都城西高校卒業
勉強以外は、楽しい学生生活でした。バンドばっかりやってた。
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昭和52年 4月 |
大阪芸術大学 芸術計画学科(?)入学。学校の近くの6畳一間の学生寮に入る。
寮の新入生歓迎コンパで、九州の先輩に捕まり、かなり飲まされる。救急車で病院送り。
軽音楽クラブに入部。あまりのレベルの高さに度肝を抜かれる。寮仲間とバンド結成。
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昭和52年 8月 |
近鉄河内天美駅前のミスタードーナツで深夜のアルバイト。 こてこての河内のお客さん相手の、きつ~い人生勉強でした。
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昭和55年 |
音楽にのめりこみすぎて、大学は中退。
芸大繋がりで友人にグラフィック・デザイナーが多く、後に大変お世話になる。
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昭和56年 |
近鉄富田林駅前の吉田レコード店でアルバイト。
店長をそそのかして転職に誘導、自分が店長代理に収まる
(前店長は同級生で寮仲間:現在カメラのキタムラの社長)なんでそうなるの?
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昭和57年 |
5年付き合っていた彼女を残して、何の当てもないのに東京へバンド修行へ行く。
バーテンから怪しい訪問販売まで、様々なバイトをこなしながらバンドを渡り歩く。
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昭和58年 |
業界人(グラフィックデザイナー・イラストレーター・カメラマン・レコード会社)の趣味のバンドに参加し、視野が広がる。
このバンドで知り合ったグラフィック・デザイナーの事務所で、修行させていただき基礎を学ぶ。
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昭和60年 |
サンセット・ハウス(大学時代の学生寮の名前をとって)という事務所名で独立開業。
この頃から音楽で飯を食うのはあきらめていた。そして遠距離恋愛も終わりを告げます。
実家の写真屋を継ぐ気は無く、夢見て都会へ来ては見たけど大事なものも無くし・・・・
仕事では、写真植字とか写真製版、子供の頃から嗅いでいた現像液のにおいもする。
ふるさとから逃げたつもりでいて、結局逃げられなかったような気もしてきた。
その頃東京は、地震がやたら多く、
7階に住んでたので倒壊したら死ぬんやな~と思っていた。
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昭和63年 10月 |
30才になり、描いた夢と叶った夢との違いに若干の挫折感を感じて帰郷。
家業の写真屋を継ぐ。
帰れるふるさとがあり、仕事があることに感謝!
震災後の今は、ほんとに強くそう思う。
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平成7年 |
たまたまデザイン関係の展示会に行き、
デジタル化の波の大きさと速さにショックを受ける。
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平成8年 |
写真業界にも、デジタル化の波が来るはずと
当時高価なパソコンを導入し、勉強を始める。
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平成21年 |
口蹄疫、景気悪化、
デジタルカメラの台頭(フィルム現像が無くなり、パソコンでおうちプリント)
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平成23年 |
東日本大震災 民主党政権に期待した私がバカでした。
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平成26年 |
一人一人が、前を向いて仕事することが、ささやかな復興支援かと思います。
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令和02年 |
武漢ウィルス禍で、世界中が大迷惑!
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